ぶぉん、という聞き慣れた電子音に紛れて、聞き慣れない甲高い声がスカビオーサの耳を刺した。
いつものように島々を転々と放浪していた彼女が、それを女性の悲鳴だと認知するまでにはほんの少しだけ時間が要った。彼女の本職は仕立て屋で、普段は悲鳴を聞くような機会は滅多にない。たった今だっていつものように、この見知らぬ島にびよんと飛んできたばかりだ。背筋をゾクリとさせるようなただならぬその声に驚いて振り返ると、その勢いで手に持っていたカボチャのバケツからお菓子がこぼれて落ちた。
一瞬のうちに、悲鳴の気配は消えていた。注意深く耳を澄ますスカビオーサだが、辺りは静寂を保ったままだ。そろそろと左右を確認してから、彼女は胸を撫で下ろし、小さく安堵の息をつく。ハロウィンの暗い夜のせいか、勘違いをしたようだ。辺りはただ暗く、至って普通の島に、小さな建物が建っているだけ。どうやら店のようだが、中からは温かな光が漏れている。何のお店だろう、と一瞬首を伸ばした彼女の肩に、ふっと突然、何かが触れた。
「落ちたよ」
「うわあ!!」
背後から突然かけられた声に、スカビオーサの喉からは思わず普段なら決して出さないような声が出て、その声量に自分でも驚いてしまう。びくりと肩を揺らして振り返れば、彼女の背よりもまだ大きいその影が、高い月を背にぬらりと立っていた。スカビオーサは構えたが、すぐにそれが柔らかく微笑んだのを見て首を傾げる。背後に現れたのは灰色のシャツの男。その手には小さなお菓子がちょこんと乗せられていた。
「…お前さんの落とし物だろう?」
「あ、…ああ、そうか、さっき…」
彼が発する柔らかい声に、さっきまで慌てふためいていた自分が恥ずかしくなる。
スカビオーサが慌てて頭を下げ、礼を言うと、彼は曖昧に微笑んだ。
「大丈夫かい?…敏感な子には気配が分かるんだろうな。ここを通りかかると驚く子、結構いるんだ」
気配、?
ひとりごとのように呟かれた男の言葉に、スカビオーサは首を傾げた。彼が彼女を見つめ、小さく口角を持ち上げる頃には、彼女にもなんとなくその意味が分かり始めていた。つまり、そういうことだ。いるのだ、ここには。
「幽霊さ」
灰色の男は、そっと呟いた。スカビオーサを脅かすような意地悪さもなく、からかうような楽しげな声色でもなく、むしろどこか諦めたような響きを、スカビオーサは粒さに感じ取った。その声には静かな真実味と説得力があった。スカビオーサはさっきの悲鳴を思い出しながら、本当のことを言っているのだろうなとぼんやり思う。あれは、その幽霊の悲鳴だったのだ。彼女には死者の声が聞こえる。彼女の声は、聞いたことがないほど鮮やかな、ピンク色の声だった。
「怖くはないんだね」
唐突に、彼が言った。
ぱちりと目を瞬かせて、スカビオーサは彼を見る。
「興味があるなら、驚かせたお詫びをさせるよ。我が家の幽霊に」
「い、行ってもいいの?」
「もちろん。君はお化けに"慣れてる"みたいだし。お茶でも淹れよう」
ついておいで、そう柔らかく彼は言って、微笑んだ。歩き出した彼のあとをスカビオーサは追う。あの暖かい光の溢れる小さな店が帽子屋だと気づいたのは、随分近くに近寄ってからだった。
ごちゃごちゃした店内に、所狭しと並べられた帽子の数。シルクハットからベレー帽、おしゃれなニット帽や、スカビオーサの知らない帽子まで、数えきれないほどの、色の洪水だ。
うわあ、と声に出しそうになって、スカビオーサは自分がまたぽかんと口を開けていたことに気づく。口を閉めて、店内を見渡すのをやめ、彼の姿を探した。あの大きな背中を見失うのも、この店の中ではあっという間だ。ちいさなおもちゃ箱に、無理やりいろんなおもちゃを詰め込んだみたいだった。視界に入るもの全てが染められた糸と布の洪水だ。つやつやした光沢のある生地もあれば、温かい毛糸で織られた生地もある。帽子はそれぞれ壁にかけられ、未完成のものは、奥の一人がけの机にたった今断たれたばかりの布切れと一緒におとなしく並んでいた。スカビオーサの中の、仕立て屋の心が踊る。綺麗な断ち筋に、帽子屋の仕事の丁寧さが伺えた。この帽子屋は細かい作業も得意なようで、机の上に散らばる余った端切れや、色とりどりのかがり糸も、これ以上他には何も作れないというくらい小さいものだった。布や糸を、ちゃんと大事にする人みたいだ。と、彼女は感心した。店のさらに奥に、ようやく彼の姿を見つける。スカビオーサはそばへ寄った。
「この店の帽子は、あなたが?」
「作るのが趣味でね」
来る人はみんな驚くよ、と、彼は笑う。釣られてスカビオーサも微笑むと、ふと彼の目線が宙に浮いた。ふわりと冷たい風が、スカビオーサを撫でる。
『何よその女』
突如耳元で囁かれた、女性の声。体中を悪寒が駆け上がる感覚に、スカビオーサは本日二度目の意図しない悲鳴を上げた。慌てて振り返るが、そこには誰も居ない。隣で帽子屋が呆れたように宙を見つめているだけだ。
『あーらいい声♡思ってたより可愛いのね』
冷たい空気がじわりとスカビオーサの肌の上を這っていく。思わず鳥肌を立てた彼女の肩に、ふいに優しく、帽子屋の手が乗る。
「あまりいじめないでくれよヴィレッタ。せっかくのお客さんだぞ」
『フフ、いらっしゃい♡でももう少し彼から離れなさいねー♡』
フッと冷たい風が吹いてスカビオーサはよろめいた。
それを支えた帽子屋が、曖昧に微笑んで申し訳なさそうに言う。
すまないね。こいつは少し独占欲が強い。
「見えないみたいだね」
「声は聞こえるんだけど……女の人?」
「ハズレじゃあないな」
『あらやだアタリでしょ?』
見えない幽霊が、クスクスと笑う、声がする。
変な感じだ。スカビオーサは目を細めた。やはり姿は見えない。しかし、その声は聞こえる。今までずっと、死者の声が聞こえる自分は変なんだと思ってた。でも、今目の前にある状況のほうがもっと変だ。この小さなお店も変だけど、そこに幽霊がいることが当たり前みたい。そこまで考えて、思い直す。男には『彼女』が見えているのだ。スカビオーサに不思議な耳があるように、彼はそこにいる存在を確かに見つめていた。
「そこにいるのね。帽子屋さんは幽霊が見えるんだ」
「こいつだけなんだ」
嬉しくなって呟いた独り言に、返ってきた帽子屋の答えはまたしても、残念そうな声。
「彼女だけ? 彼女、ここに取り憑いてるの?」
「お前さんは賢いね」
ゆるりと微笑まれて、漂う切なさに違和感を覚える。首を傾げたスカビオーサに、彼は続けた。
「彼女は俺に取り憑いてるんだ。ハロウィンの夜だからじゃない」
『恋に落ちたの』
「恋?」
『そうよ』
あっさりと告げられる、冗談めいたドラマチックすぎるセリフ。見えない声は嬉しそうに笑う。
冗談でしょう?、と彼に呟いたところで、帽子屋は意味ありげにただ首をすくめた。
「ほんとなの?」
『やーねどうしてアンタに嘘なんかつくのよ?』
どうしてって、どうしたら幽霊と恋に落ちるわけ?
目を細めたスカビオーサのすぐ後ろから、恋するゴーストの嬉しそうな声は続く。恋に生別は関係ないのよ!
「お前さんには、幽霊の声がみんな聞えるのかい?」
ケタケタと笑い出した彼女にスカビオーサがますます不信感を募らせたところで、帽子屋がふいに彼女にそう尋ねた。少し間をおいて、スカビオーサはゆるりと首を振る。
「聞こえると言うか…声が見えるの。死者の声の色が。声が聞こえれば、だけど…。でも変ね。さっきあたしが聞いた悲鳴、今聞いてる彼女の色と違うの」
そう、さっきのは、攻撃的なまでに鮮やかなショッキングピンクだった。彼に纏わりつくゴーストののんきな声は、なんていうか、もっと落ち着いたえんじ色だ。
呟いたスカビオーサの声に、帽子屋の表情が一瞬曇った。ピンク?と聞き返す彼の声にかぶせて、突然ゴーストがまた嬉々とした声を上げる。
『死者の叫びが聞こえたの?まァステキ!』
「声を聞くと、糸にした時の色がわかるのよ。それで判別するの。似てるけど、同じ色じゃなかった。あれはまた別の声よ」
スカビオーサはそこまで告げて、黙り込んだ帽子屋を見上げた。その顔には、なんの感情も浮かんでいない。失礼なこと言ったかしら、と彼女が謝ろうとした時には、絡みつくようなゴーストガールの囁きが、ひどい悪寒とともにあっという間にスカビオーサを包んだ。
『だってねえ、ハロウィンだもの。幽霊なんかうようよいるわよ。見えないだけで、ね?』
その声にぞくりと鳥肌がたって、スカビオーサは反射的に目を見開いた。それでも見えるのはえんじ色の糸だけで、ゆるゆると揺れて彼女の目の前に落ちるその糸は人の形を取ることはない。波のように脈打って、静かにするりと落ちてくる。細く美しいゴーストの囁きは、ふわりとスカビオーサの肩にかかり、くるりとまわって指の先へ、腕をなぞってまた肩へ、しんしんと降り積もる雪のように、やわらかく、冷たく、徐々にスカビオーサの肌を覆った。重くなどない。重さなど感じない。それでも肌に触れる細い糸は、絡み合い、まとわりついて、不気味だ。それでも何故か体は動かない。落とされる糸を受け止めながら、ぐるぐると巻き付く糸をどうすることもできない。
ああ、と、その緩やかな重みを感じながらスカビオーサは思う。死者はいつだって、生者にすがりついている。気づかれない声が、充満して、反響して、生者はそれを手繰り寄せ、雁字搦めになっている。それでも、それでも人は、生きなきゃいけない。
「やめろヴィレッタ」
ふいに響いた低い声に、スカビオーサははっと目を覚ました。
彼女の肩にのっていた糸を、帽子屋が、さりげなく、ホコリでも払うかのように、優しい手つきで払い落とした。
えんじ色の糸が音も立てずに床に落ちたのを、スカビオーサはぼんやり観ていた。
「大丈夫かい?」
優しい声がする。帽子屋は微笑んで、スカビオーサを置いてあった小さなソファーに座らせた。幽霊の声はもうしなかった。スカビオーサは彼を静かに見上げた。
「あなたは?」
ずっと気になっていた。帽子屋だと知ったから、それは布を断つ時の糸くずなのかと思っていたけど、そうじゃない。あなた糸だらけよ。言いかけた言葉は、声にならなかった。彼の体に、様々なピンク色の糸が絡みついているのを、スカビオーサだけが知っていた。中には、あの悲鳴と同じ色の糸もあった。それだけの糸を手繰り寄せながら、彼が何も気づかないのが不思議だ。いや、気づいてるのかもしれない、とスカビオーサは思い直す。気づいているから彼は、こんなところにひとりぼっちで、幽霊と暮らしているのかもしれない。
「温かい紅茶を入れるよ、ええと、そういえばまだ名前を聞いてなかったな」
帽子屋はそう呟いて、ソファーに座る仕立て屋を見つめた。
仕立て屋は帽子屋に絡みついた、鮮やかすぎる糸のほどき方を考えていた。
ゴーストの悲鳴はもう聞こえなかった。
聞こえない代わりに彼女には、ちゃんと、未練たっぷりの重そうな糸が見えていた。
***
ブルークさん宅スカビオーサちゃんお借りしました! 「死者の声を糸にする能力」、とても魅力的な設定だったのでうまく使いたかったんですけど…おおおどうでしょう…どうでしょうね…おろおろ スカビオーサちゃん割と落ち着いていて大人びている印象を受けたので、ぎゃーっと驚くのではなくびくってしてくれたらかわいいなあ…というせめてものハロウィン要素も入れてみました むしろゴーストガールにトリックされてる感が否めません!(そしておかしもぐもぐしてない) ……幽霊嫌いにならずまたぜひ帽子屋に遊びに来てね! スカビオーサちゃんお疲れ様でした〜!ブルークさん素敵なお子さんを有難うございました!
いつものように島々を転々と放浪していた彼女が、それを女性の悲鳴だと認知するまでにはほんの少しだけ時間が要った。彼女の本職は仕立て屋で、普段は悲鳴を聞くような機会は滅多にない。たった今だっていつものように、この見知らぬ島にびよんと飛んできたばかりだ。背筋をゾクリとさせるようなただならぬその声に驚いて振り返ると、その勢いで手に持っていたカボチャのバケツからお菓子がこぼれて落ちた。
一瞬のうちに、悲鳴の気配は消えていた。注意深く耳を澄ますスカビオーサだが、辺りは静寂を保ったままだ。そろそろと左右を確認してから、彼女は胸を撫で下ろし、小さく安堵の息をつく。ハロウィンの暗い夜のせいか、勘違いをしたようだ。辺りはただ暗く、至って普通の島に、小さな建物が建っているだけ。どうやら店のようだが、中からは温かな光が漏れている。何のお店だろう、と一瞬首を伸ばした彼女の肩に、ふっと突然、何かが触れた。
「落ちたよ」
「うわあ!!」
背後から突然かけられた声に、スカビオーサの喉からは思わず普段なら決して出さないような声が出て、その声量に自分でも驚いてしまう。びくりと肩を揺らして振り返れば、彼女の背よりもまだ大きいその影が、高い月を背にぬらりと立っていた。スカビオーサは構えたが、すぐにそれが柔らかく微笑んだのを見て首を傾げる。背後に現れたのは灰色のシャツの男。その手には小さなお菓子がちょこんと乗せられていた。
「…お前さんの落とし物だろう?」
「あ、…ああ、そうか、さっき…」
彼が発する柔らかい声に、さっきまで慌てふためいていた自分が恥ずかしくなる。
スカビオーサが慌てて頭を下げ、礼を言うと、彼は曖昧に微笑んだ。
「大丈夫かい?…敏感な子には気配が分かるんだろうな。ここを通りかかると驚く子、結構いるんだ」
気配、?
ひとりごとのように呟かれた男の言葉に、スカビオーサは首を傾げた。彼が彼女を見つめ、小さく口角を持ち上げる頃には、彼女にもなんとなくその意味が分かり始めていた。つまり、そういうことだ。いるのだ、ここには。
「幽霊さ」
灰色の男は、そっと呟いた。スカビオーサを脅かすような意地悪さもなく、からかうような楽しげな声色でもなく、むしろどこか諦めたような響きを、スカビオーサは粒さに感じ取った。その声には静かな真実味と説得力があった。スカビオーサはさっきの悲鳴を思い出しながら、本当のことを言っているのだろうなとぼんやり思う。あれは、その幽霊の悲鳴だったのだ。彼女には死者の声が聞こえる。彼女の声は、聞いたことがないほど鮮やかな、ピンク色の声だった。
「怖くはないんだね」
唐突に、彼が言った。
ぱちりと目を瞬かせて、スカビオーサは彼を見る。
「興味があるなら、驚かせたお詫びをさせるよ。我が家の幽霊に」
「い、行ってもいいの?」
「もちろん。君はお化けに"慣れてる"みたいだし。お茶でも淹れよう」
ついておいで、そう柔らかく彼は言って、微笑んだ。歩き出した彼のあとをスカビオーサは追う。あの暖かい光の溢れる小さな店が帽子屋だと気づいたのは、随分近くに近寄ってからだった。
ごちゃごちゃした店内に、所狭しと並べられた帽子の数。シルクハットからベレー帽、おしゃれなニット帽や、スカビオーサの知らない帽子まで、数えきれないほどの、色の洪水だ。
うわあ、と声に出しそうになって、スカビオーサは自分がまたぽかんと口を開けていたことに気づく。口を閉めて、店内を見渡すのをやめ、彼の姿を探した。あの大きな背中を見失うのも、この店の中ではあっという間だ。ちいさなおもちゃ箱に、無理やりいろんなおもちゃを詰め込んだみたいだった。視界に入るもの全てが染められた糸と布の洪水だ。つやつやした光沢のある生地もあれば、温かい毛糸で織られた生地もある。帽子はそれぞれ壁にかけられ、未完成のものは、奥の一人がけの机にたった今断たれたばかりの布切れと一緒におとなしく並んでいた。スカビオーサの中の、仕立て屋の心が踊る。綺麗な断ち筋に、帽子屋の仕事の丁寧さが伺えた。この帽子屋は細かい作業も得意なようで、机の上に散らばる余った端切れや、色とりどりのかがり糸も、これ以上他には何も作れないというくらい小さいものだった。布や糸を、ちゃんと大事にする人みたいだ。と、彼女は感心した。店のさらに奥に、ようやく彼の姿を見つける。スカビオーサはそばへ寄った。
「この店の帽子は、あなたが?」
「作るのが趣味でね」
来る人はみんな驚くよ、と、彼は笑う。釣られてスカビオーサも微笑むと、ふと彼の目線が宙に浮いた。ふわりと冷たい風が、スカビオーサを撫でる。
『何よその女』
突如耳元で囁かれた、女性の声。体中を悪寒が駆け上がる感覚に、スカビオーサは本日二度目の意図しない悲鳴を上げた。慌てて振り返るが、そこには誰も居ない。隣で帽子屋が呆れたように宙を見つめているだけだ。
『あーらいい声♡思ってたより可愛いのね』
冷たい空気がじわりとスカビオーサの肌の上を這っていく。思わず鳥肌を立てた彼女の肩に、ふいに優しく、帽子屋の手が乗る。
「あまりいじめないでくれよヴィレッタ。せっかくのお客さんだぞ」
『フフ、いらっしゃい♡でももう少し彼から離れなさいねー♡』
フッと冷たい風が吹いてスカビオーサはよろめいた。
それを支えた帽子屋が、曖昧に微笑んで申し訳なさそうに言う。
すまないね。こいつは少し独占欲が強い。
「見えないみたいだね」
「声は聞こえるんだけど……女の人?」
「ハズレじゃあないな」
『あらやだアタリでしょ?』
見えない幽霊が、クスクスと笑う、声がする。
変な感じだ。スカビオーサは目を細めた。やはり姿は見えない。しかし、その声は聞こえる。今までずっと、死者の声が聞こえる自分は変なんだと思ってた。でも、今目の前にある状況のほうがもっと変だ。この小さなお店も変だけど、そこに幽霊がいることが当たり前みたい。そこまで考えて、思い直す。男には『彼女』が見えているのだ。スカビオーサに不思議な耳があるように、彼はそこにいる存在を確かに見つめていた。
「そこにいるのね。帽子屋さんは幽霊が見えるんだ」
「こいつだけなんだ」
嬉しくなって呟いた独り言に、返ってきた帽子屋の答えはまたしても、残念そうな声。
「彼女だけ? 彼女、ここに取り憑いてるの?」
「お前さんは賢いね」
ゆるりと微笑まれて、漂う切なさに違和感を覚える。首を傾げたスカビオーサに、彼は続けた。
「彼女は俺に取り憑いてるんだ。ハロウィンの夜だからじゃない」
『恋に落ちたの』
「恋?」
『そうよ』
あっさりと告げられる、冗談めいたドラマチックすぎるセリフ。見えない声は嬉しそうに笑う。
冗談でしょう?、と彼に呟いたところで、帽子屋は意味ありげにただ首をすくめた。
「ほんとなの?」
『やーねどうしてアンタに嘘なんかつくのよ?』
どうしてって、どうしたら幽霊と恋に落ちるわけ?
目を細めたスカビオーサのすぐ後ろから、恋するゴーストの嬉しそうな声は続く。恋に生別は関係ないのよ!
「お前さんには、幽霊の声がみんな聞えるのかい?」
ケタケタと笑い出した彼女にスカビオーサがますます不信感を募らせたところで、帽子屋がふいに彼女にそう尋ねた。少し間をおいて、スカビオーサはゆるりと首を振る。
「聞こえると言うか…声が見えるの。死者の声の色が。声が聞こえれば、だけど…。でも変ね。さっきあたしが聞いた悲鳴、今聞いてる彼女の色と違うの」
そう、さっきのは、攻撃的なまでに鮮やかなショッキングピンクだった。彼に纏わりつくゴーストののんきな声は、なんていうか、もっと落ち着いたえんじ色だ。
呟いたスカビオーサの声に、帽子屋の表情が一瞬曇った。ピンク?と聞き返す彼の声にかぶせて、突然ゴーストがまた嬉々とした声を上げる。
『死者の叫びが聞こえたの?まァステキ!』
「声を聞くと、糸にした時の色がわかるのよ。それで判別するの。似てるけど、同じ色じゃなかった。あれはまた別の声よ」
スカビオーサはそこまで告げて、黙り込んだ帽子屋を見上げた。その顔には、なんの感情も浮かんでいない。失礼なこと言ったかしら、と彼女が謝ろうとした時には、絡みつくようなゴーストガールの囁きが、ひどい悪寒とともにあっという間にスカビオーサを包んだ。
『だってねえ、ハロウィンだもの。幽霊なんかうようよいるわよ。見えないだけで、ね?』
その声にぞくりと鳥肌がたって、スカビオーサは反射的に目を見開いた。それでも見えるのはえんじ色の糸だけで、ゆるゆると揺れて彼女の目の前に落ちるその糸は人の形を取ることはない。波のように脈打って、静かにするりと落ちてくる。細く美しいゴーストの囁きは、ふわりとスカビオーサの肩にかかり、くるりとまわって指の先へ、腕をなぞってまた肩へ、しんしんと降り積もる雪のように、やわらかく、冷たく、徐々にスカビオーサの肌を覆った。重くなどない。重さなど感じない。それでも肌に触れる細い糸は、絡み合い、まとわりついて、不気味だ。それでも何故か体は動かない。落とされる糸を受け止めながら、ぐるぐると巻き付く糸をどうすることもできない。
ああ、と、その緩やかな重みを感じながらスカビオーサは思う。死者はいつだって、生者にすがりついている。気づかれない声が、充満して、反響して、生者はそれを手繰り寄せ、雁字搦めになっている。それでも、それでも人は、生きなきゃいけない。
「やめろヴィレッタ」
ふいに響いた低い声に、スカビオーサははっと目を覚ました。
彼女の肩にのっていた糸を、帽子屋が、さりげなく、ホコリでも払うかのように、優しい手つきで払い落とした。
えんじ色の糸が音も立てずに床に落ちたのを、スカビオーサはぼんやり観ていた。
「大丈夫かい?」
優しい声がする。帽子屋は微笑んで、スカビオーサを置いてあった小さなソファーに座らせた。幽霊の声はもうしなかった。スカビオーサは彼を静かに見上げた。
「あなたは?」
ずっと気になっていた。帽子屋だと知ったから、それは布を断つ時の糸くずなのかと思っていたけど、そうじゃない。あなた糸だらけよ。言いかけた言葉は、声にならなかった。彼の体に、様々なピンク色の糸が絡みついているのを、スカビオーサだけが知っていた。中には、あの悲鳴と同じ色の糸もあった。それだけの糸を手繰り寄せながら、彼が何も気づかないのが不思議だ。いや、気づいてるのかもしれない、とスカビオーサは思い直す。気づいているから彼は、こんなところにひとりぼっちで、幽霊と暮らしているのかもしれない。
「温かい紅茶を入れるよ、ええと、そういえばまだ名前を聞いてなかったな」
帽子屋はそう呟いて、ソファーに座る仕立て屋を見つめた。
仕立て屋は帽子屋に絡みついた、鮮やかすぎる糸のほどき方を考えていた。
ゴーストの悲鳴はもう聞こえなかった。
聞こえない代わりに彼女には、ちゃんと、未練たっぷりの重そうな糸が見えていた。
可視幽霊に鮮やかな声を
***
ブルークさん宅スカビオーサちゃんお借りしました! 「死者の声を糸にする能力」、とても魅力的な設定だったのでうまく使いたかったんですけど…おおおどうでしょう…どうでしょうね…おろおろ スカビオーサちゃん割と落ち着いていて大人びている印象を受けたので、ぎゃーっと驚くのではなくびくってしてくれたらかわいいなあ…というせめてものハロウィン要素も入れてみました むしろゴーストガールにトリックされてる感が否めません!(そしておかしもぐもぐしてない) ……幽霊嫌いにならずまたぜひ帽子屋に遊びに来てね! スカビオーサちゃんお疲れ様でした〜!ブルークさん素敵なお子さんを有難うございました!